菅原孝標女の思い~! 藤原道綱母の恨み

こんにちにゃ!
ねこ納言にゃ‼
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昨日の夜
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に近くの神社のお祭りに行ってきたにゃ‼
菅原孝標女なら、「夜に、神社のお祭りでかっこいい人とすれ違って、ロマンチックな恋をしてみたーい!」とか言いそうだけど…
世の中はそんなにうまくいかないのにゃ~~~!現実逃避はやめにゃさい!
菅原孝標女 1008年~1059年?
10歳くらいから50歳くらいまでの人生を回想した『更級日記』の作者。更級日記から、『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』の作者ともおもわれるにゃ
父は菅原道真の玄孫の菅原孝標。母は藤原倫寧の娘。伯母は、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。兄・定義、甥・在良は学者にゃ
彼女は1008年に出生。1020年、上総国における父の上総介としての任期が終了したので上京し、3ヶ月ほどの旅で京へと入ったにゃ。上京するころ彼女は13歳で、更級日記上総国に居る頃から始まっている。当時、物語に対する熱が冷めず、翌年に上京した伯母から『源氏物語』五十余巻などを貰い、昼夜を問わず読み耽った。夢に僧が出てきて(女人成仏が説かれている)「法華経・第五巻を早く習え」と言うが、心にも掛けず物語を読みふけったことを、後年更級日記の中で、「まづ いとはかなく あさまし」と批評しているにゃ。1024年には姉が二女を残して亡くなり、なお物語に耽読した。しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになる。
祐子内親王に仕え、1040年頃、橘俊通と結婚。1045年に仲俊と二女をもうけたが、俊通は1058年に死去し、子供達も独立して彼女は孤独になったにゃ。このあたりで更級日記は終わっちゃってるのにゃ!

浜松中納言物語って不思議な物語?読んでみたいにゃ!

藤原道綱母 936年~995年6月2日
尊卑分脈』に「本朝第一美人三人内也」と書かれているが、尊卑分脈は間違いも多く根拠は判然としない。なお、『榻鴫暁筆』によれば、他の2人は、光明皇后と藤原明子にゃ
藤原兼家の妻の一人となり一子道綱を儲けた。また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしたにゃ。兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』につづったにゃ。晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われているがよくわかってないにゃ。『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えているにゃ

今日は何の日
1567年:織田信長斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り岐阜城と改称。

誕生日
1192年:源実朝鎌倉幕府第3代将軍