源氏物語 葵2

常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類 ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ 少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわり にいみじければ、空のみ眺められたまひて、
ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、
え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさまし ければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々 の御とぶらひの使など、立ち こみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、い と恐ろしきまで見えたまふ。
「 のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな 」
もののけのたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさな がら、二、三日見たてまつりたまへど、やうやう変はりたまふことどもの あれば、限り、と思し果つるほど、誰も誰もいといみじ。
「 などて、つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思ひて、なほ ざりのすさびにつけても、つらしとおぼえられたてまつりけむ。世を経て、 疎く恥づかしきものに思ひて過ぎ果てたまひぬる」
大将殿は、悲しきことに、ことを添へて、世の中をいと憂きものに思し 染みぬれば、ただならぬ御あたりの弔ひどもも、心憂しとのみぞ、なべて 思さるる。院に、思し嘆き、弔ひきこえさせたまふさま、かへりて面立た しげなるを、うれしき瀬もまじりて、大臣は御涙のいとまなし。
など、悔しきこと多く、思しつづけらるれど、かひなし。にばめる御衣 たてまつれるも、夢の心地して「、 われ先立たましかば、深くぞ染めたまは まし」と、思すさへ、
人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返りたまふと、さまざ まに残ることなく、かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも、尽 きせず思し惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥辺 野に率てたてまつるほど、いみじげなること、多かり。
「 限りあれば薄墨衣浅けれど涙ぞ袖を淵となしける 」
とて、念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやか に誦みたまひつつ「、 法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる 法師よりはけなり。若君を見たてまつりたまふにも「、 何に忍ぶの」と、い とど露けけれど、「 かかる形見さへなからましかば」と、思し慰む。
こなたかなたの御送りの人ども、寺々 の念仏僧など、そこら広き野に所 もなし。院をばさらにも申さず、后の宮、春宮などの御使、さらぬ所々 の も参りちがひて、飽かずいみじき御とぶらひを聞こえたまふ。大臣はえ
宮はしづみ入りて、そのままに起き上がりたまはず、危ふげに見えたま ふを、また思し騒ぎて、御祈りなどせさせたまふ。
夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばか りを御名残にて、暁深く帰りたまふ。
殿におはし着きて、つゆまどろまれたまはず。年ごろの御ありさまを思 し出でつつ、
はかなう過ぎゆけば、御わざのいそぎなどせさせたまふも、思しかけざ りしことなれば、尽きせずいみじうなむ。なのめにかたほなるをだに、人の親はいかが思ふめる、ましてことわりなり。また、類ひおはせぬをだに、「 こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつまし
さうざうしく思しつるに、袖の上の玉の砕けたりけむよりも、あさましげ なり。
きほどは、さらば、思し知るらむやとてなむ。
大将の君は、二条院にだに、あからさまにも渡りたまはず、あはれに心 深う思ひ嘆きて、行ひをまめにしたまひつつ、明かし暮らしたまふ。所々 には、御文ばかりぞたてまつりたまふ。
とまる身も消えしもおなじ露の世に心置くらむほどぞはかなき
かの御息所は、斎宮は左衛門の司に入りたまひにければ、いとどいつく しき御きよまはりにことつけて、聞こえも通ひたまはず。憂しと思ひ染み にし世も、なべて厭はしうなりたまひて「、 かかるほだしだに添はざらまし かば、願はしきさまにもなりなまし」と思すには、まづ対の姫君の、さう ざうしくてものしたまふらむありさまぞ、ふと思しやらるる。
かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰れにも」 と聞こえたまへり。 里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたまへる
夜は、御帳の内に一人臥したまふに、宿直の人々 は近うめぐりてさぶら へど、かたはら寂しくて「、 時しもあれ」と寝覚めがちなるに、声すぐれた る限り選りさぶらはせたまふ念仏の、暁方など、忍びがたし。
けしきを、心の鬼にしるく見たまひて「、 さればよ」と思すも、いといみじ。 「 なほ、いと限りなき身の憂さなりけり。かやうなる聞こえありて、院にも いかに思さむ。故前坊の、同じき御はらからと言ふなかにも、いみじう思ひ 交はしきこえさせたまひて、この斎宮の御ことをも、ねむごろに聞こえつ けさせたまひしかば『、 その御代はりにも、やがて見たてまつり扱はむ』な ど、常にのたまはせて『、 やがて内裏住みしたまへ』と、たびたび聞こえさ せたまひしをだに、いとあるまじきこと、と思ひ離れにしを、かく心より
「 深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独 寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝 に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり「。 今めかしうも」と て、見たまへば、御息所の御手なり。
ほかに若々しきもの思ひをして、つひに憂き名をさへ流し果てつべきこと」 と、思し乱るるに、なほ例のさまにもおはせず。 さるは、おほかたの世につけて、心にくくよしある聞こえありて、昔よ
「 聞こえぬほどは、思し知るらむや。
り名高くものしたまへば、野の宮の御移ろひのほどにも、をかしう今めき たること多くしなして「、 殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分けあり くを、そのころの役になむする」など聞きたまひても、大将の君は「、 こと わりぞかし。ゆゑは飽くまでつきたまへるものを。もし、世の中に飽き果て て下りたまひなば、さうざうしくもあるべきかな」と、さすがに思されけり。
人の世をあはれと聞くも露けきに後るる袖を思ひこそやれ
ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」
とあり「。 常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見
たまふものから「、 つれなの御弔ひや」と心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。
「 過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何 にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心
御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。ならはぬ御つ れづれを、心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中 の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出 でつつ、慰めきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ひたまふくさはひには なるめる。大将の君は、
ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。
斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへ
ど、「 わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、
「 あな、いとほしや。祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」 といさめたまふものから、常にをかしと思したり。 かの十六夜の、さやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの
りつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思ひきこえたまひ けるなめり」
好色事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ、果て果ては、あはれ なる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもしたまひけり。
と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて光失せぬる心地 して、屈じいたかりけり。
時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、う すらかに衣更へして、いと雄々 しうあざやかに、心恥づかしきさまして参 りたまへり。
枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたま ひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、
君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなり けり。風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、
にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」 と聞こえたまへり。げに何心なき御笑み顔ぞ、いみじううつくしき。宮は、吹
「 雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」 と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま「、 女にては、見捨てて
く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。 「 今も見てなかなか袖を朽たすかな垣ほ荒れにし大和撫子
亡くならむ魂かならずとまりなむかし」と、色めかしき心地に、うちまも られつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまなが ら、紐ばかりをさし直したまふ。
これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重 ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。
なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に「、 今日のあはれは、さりと も見知りたまふらむ」と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞 こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なく て御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、
中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。
「 雨となりしぐるる空の浮雲いづれの方とわきて眺めむ
行方なしや」 と、独り言のやうなるを、
いつも時雨は」 とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、
「 見し人の雨となりにし雲居さへいとど時雨にかき暮らすころ 」
「 過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思されければ、 「 大内山を、思ひやりきこえながら、えやは」とて、
とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、
「 あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院など、居立ちてのたま はせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに、もて離るまじき など、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げな る御けしきながら、ありへたまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々 あ
「 秋霧に立ちおくれぬと聞きしよりしぐるる空もいかがとぞ思ふ 」
「 草枯れのまがきに残る撫子を別れし秋のかたみとぞ見る
「 わきてこの暮こそ袖は露けけれもの思ふ秋はあまた経ぬれど
とのみ、ほのかなる墨つきにて、思ひなし心にくし。 何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。
「 つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かた
ぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。
大殿は、人びとに、際々 ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、ま
みに情けも見果つべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆ ばかりなるは、あまりの難も出で来けり。対の姫君を、さは生ほし立てじ」 と思す「。 つれづれにて恋しと思ふらむかし」と、忘るる折なけれど、ただ 女親なき子を、置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめたく「、 いかが思 ふらむ」とおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。
た、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなし つつ、皆配らせたまひけり。
暮れ果てぬれば、大殿油近く参らせたまひて、さるべき限りの人びと、御 前にて物語などせさせたまふ。
君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ 参りたまふ。御車さし出でて、御前など参り集るほど、折知り顔なる時雨 うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御前にさ ぶらふ人々、ものいと心細くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。
中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、な かなかさやうなる筋にもかけたまはず「。 あはれなる御心かな」と見たてま つる。おほかたにはなつかしううち語らひたまひて、
夜さりは、やがて二条院に泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かし こにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日にしもとぢ むまじきことなれど、またなくもの悲し。
「 かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見 なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるも のにて、ただうち思ひめぐらすこそ、耐へがたきこと多かりけれ」
大臣も宮も、今日のけしきに、また悲しさ改めて思さる。宮の御前に御 消息聞こえたまへり。
とのたまへば、いとどみな泣きて、
「 いふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは、さるものにて、名
「 院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ参りはべる。あからさ まに立ち出ではべるにつけても、今日までながらへはべりにけるよと、乱 り心地のみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そな たにも参りはべらぬ」
残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど、思ひたまふるこそ」 と、聞こえもやらず。あはれと見わたしたまひて、
「 名残なくは、いかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあら ば、見果てたまひなむものを。命こそはかなけれ」
とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返りも 聞こえたまはず。
とて、燈をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞ、めでたき。
とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げ に思へる、ことわりに見たまひて、
大臣ぞ、やがて渡りたまへる。いと堪へがたげに思して、御袖も引き放 ちたまはず。見たてまつる人々 もいと悲し。
「 あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」 とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさ ま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。大臣、久 しうためらひたまひて、
汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。
「 昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼なき人を見捨てず、ものし
「 齢のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざに はべるを、まして、干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を、えのどめは べらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院 などにも参りはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさ
たまへ。見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たつきなさもまさりぬ べくなむ」
など、みな心長かるべきことどもをのたまへど「、 いでや、いとど待遠にせたまへ。いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つ らうもはべるかな」
るべし。「 旧き枕故き衾、誰と共にか」とある所に、
「 なき魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに 」
と、せめて思ひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。君も、たびたび 鼻うちかみて、
「 後れ先立つほどの定めなさは、世のさがと見たまへ知りながら、さしあた りておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。院にも、ありさ ま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。
また、「 霜の花白し」とある所に、
「 君なくて塵つもりぬる常夏の露うち払ひいく夜寝ぬらむ 」
「 さらば、時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこ えたまふ。うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき 通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着 つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほれたれつつゐ集りたるを、いとあ はれ、と見たまふ。
一日の花なるべし、枯れて混じれり。
「 思し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち 寄らせたまはじやなど、慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき女房などは、 今日を限りに、思し捨てつる故里と思ひ屈じて、長く別れぬる悲しびより も、ただ時々 馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるな む、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりとも つひにはと、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ、心細き夕べにはべれ」
思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、か へりてはつらく、前の世を思ひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日 ごろに添へて、恋しさの堪へがたきと、この大将の君の、今はとよそにな りたまはむなむ、飽かずいみじく思ひたまへらるる。一日、二日も見えた まはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝 夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」
とても、泣きたまひぬ。
「 いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。まことに、いかなりと
と、御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに、御前なるおとなおとなし き人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。 若き人びとは、所々 に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもう
もと、のどかに思ひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべり つらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。今御覧じ てむ」
ち語らひて、
「 殿の思しのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰むべかめ
とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御し つらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心地 ぞしたまふ。御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取 りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人々は、悲しきなかにも、ほほ 笑むあるべし。あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草 にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。
れと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」
とて、おのおの「、 あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、か
「 かしこの御手や」 と、空を仰ぎて眺めたまふ。よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきな
やと思し扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。 中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。命
宮に御覧ぜさせたまひて、
「 いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、
たみに別れ惜しむほど、おのがじしあはれなることども多かり。 院へ参りたまへれば、
「 いといたう面痩せにけり。精進にて日を経るけにや」 と、心苦しげに思し召して、御前にて物など参らせたまひて、とやかく
婦の君して、
「 思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」 と、御消息聞こえたまへり。
ば、しばし他方にやすらひて、参り来む。今は、とだえなく見たてまつる べければ、厭はしうさへや思されむ」
「 常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつる に、いとはしきこと多く思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めは べりてなむ、今日までも」とて、さらぬ折だにある御けしき取り添へて、い と心苦しげなり。無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつ れ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。
と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふ く思ひきこゆ「。 やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづ らはしきや立ち代はりたまはむ」と思ふぞ、憎き心なるや。
春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、 まかでたまふ。
朝には、若君の御もとに御文たてまつりたまふ。あはれなる御返りを見 たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。
いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩きも、もの憂く思しなら れて、思しも立たれず。
姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見え たまふを、似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、けしきばみた ることなど、折々 聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。
二条院には、方々 払ひみがきて、男女、待ちきこえたり。上臈ども皆参 う上りて、我も我もと装束き、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み 屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられたまふ。
つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を 暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのな かにも、うつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださる かたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、心苦しけれど、い かがありけむ、人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君 はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。
御装束たてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。衣更えの御しつらひ、 くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女の、形、姿めやすくととのへ て、「 少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし」と見たまふ。
人びと「、 いかなれば、かくおはしますならむ。御心地の例ならず思さる るにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳 のうちにさし入れておはしにけり。
姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。
「 久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」
とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うちそばみて笑 ひたまへる御さま、飽かぬところなし。
人まにからうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとに あり。何心もなく、ひき開けて見たまへば、
「 火影の御かたはらめ、頭つきなど、ただ、かの心尽くしきこゆる人に、違 ふところなくなりゆくかな」
「 あやなくも隔てけるかな夜をかさねさすがに馴れし夜の衣を 」
と見たまふに、いとうれし。
近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたま ひて、
と、書きすさびたまへるやうなり「。 かかる御心おはすらむ」とは、かけ ても思し寄らざりしかば、
「 日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれ
「 などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ」
御方に渡りたまひて、中将の君といふに、御足など参りすさびて、大殿 籠もりぬ。
と、あさましう思さる。
「 三つが一つかにてもあらむかし」
とのたまふに、心得果てて、立ちぬ「。 もの馴れのさまや」と君は思す。人
昼つかた、渡りたまひて、
「 悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心地ぞ。今日は、碁も打たで、さ
にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。 君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地する も、いとをかしくて「、 年ごろあはれと思ひきこえつるは、片端にもあらざ りけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわり
うざうしや」 とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。人びと
は退きつつさぶらへば、寄りたまひて、
「 など、かくいぶせき御もてなしぞ。思ひのほかに心憂くこそおはしけれな。
なかるべきこと」と思さる。 のたまひし餅、忍びて、いたう夜更かして持て参れり「。 少納言はおとな
人もいかにあやしと思ふらむ」 とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡
しくて、恥づかしくや思さむ」と、思ひやり深く心しらひて、娘の弁とい
れたまへり。
「 あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」
ふを呼び出でて、
「 これ、忍びて参らせたまへ」
とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思ひ たまひて、つゆの御いらへもしたまはず。
とて、香壷の筥を一つ、さし入れたり。
たしかに、 御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。 あな、 かしこ。 あだ
「 よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」 など怨じたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ「、 若の御あり
にな」
と言へば、「 あやし」と思へど、
さまや」と、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、入りゐて、慰めき こえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。
「 あだなることは、まだならはぬものを」 とて、取れば、
「 まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よも混じりはべらじ」 と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思ひ寄らねば、持て参りて、御枕
その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことこ としきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかり を、色々 にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出でたまひて、惟光を 召して、
上の御几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。 人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限り の人びと、思ひ合はすることどもありける。御皿どもなど、いつのまにか し出でけむ。花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをか
「 この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、明日の暮れに参らせよ。今日 は忌ま忌ましき日なりけり」
しう調へたり。
少納言は「、 いと、かうしもや」とこそ思ひきこえさせつれ、あはれにか
と、うちほほ笑みてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思ひ寄り ぬ。惟光、たしかにも承らで、
たじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。 「 さても、うちうちにのたまはせよな。かの人も、いかに思ひつらむ」
「 げに、愛敬の初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。さても、子 の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」
かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静 心なく、面影に恋しければ「、 あやしの心や」と、我ながら思さる。通ひた まひし所々 よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、い
と、まめだちて申せば、
と、ささめきあへり。
とほしと思すもあれど、新手枕の心苦しくて「、 夜をや隔てむ」と、思しわ
づらはるれば、いともの憂くて、悩ましげにのみもてなしたまひて、
「 世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」
朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたま ふ。それより大殿にまかでたまへり。大臣、新しき年ともいはず、昔の御 ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとどかくさ へ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへど、堪へがたう思したり。
とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。
今后は、御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、
「 げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、さてもあら
御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひたまひて、ありしよりけ に、きよらに見えたまふ。立ち出でて、御方に入りたまへれば、人びとも めづらしう見たてまつりて、忍びあへず。
むに、などか口惜しからむ」
など、大臣のたまふに、「 いと憎し」と、思ひきこえたまひて、
「 宮仕へも、をさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」 と、参らせたてまつらむことを思しはげむ。 君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ
若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはする も、あはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば「、 人もこそ 見たてまつりとがむれ」と見たまふ。
今はことざまに分くる御心もなくて、
「 何かは、かばかり短かめる世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふ
御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうにし掛けら れたるに、女のが並ばぬこそ、栄なくさうざうしけれ。
まじかりけり」 と、いとど危ふく思し懲りにたり。
宮の御消息にて、
「 今日は、いみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なか
「 かの御息所は、いといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、 なか」
など聞こえたまひて、 折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむ」など、さすがに、ことのほ 「 昔にならひはべりにける御よそひも、月ごろは、いとど涙に霧りふたがり
かならず心おかれぬべし。年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき
かには思し放たず。
「 この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。
て、色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど、今日ばかりは、な ほやつれさせたまへ」
父宮に知らせきこえてむ」と、思ほしなりて、御裳着のこと、人にあまね くはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとあ りがたけれど、女君は、こよなう疎みきこえたまひて「、 年ごろよろづに頼 みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれ」と、悔し うのみ思して、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたま ふも、苦しうわりなきものに思しむすぼほれて、ありしにもあらずなりた まへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、
とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねてたてまつれたま へり。かならず今日たてまつるべき、と思しける御下襲は、色も織りざま も、世の常ならず、心ことなるを、かひなくやはとて、着替へたまふ。来 ざらましかば、口惜しう思さましと、心苦し。御返りに、
「 年ごろ、思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御けしきの、心憂きこと」 と、怨みきこえたまふほどに、年も返りぬ。
あまた年今日改めし色衣着ては涙ぞふる心地する
えこそ思ひたまへしづめね」 と聞こえたまへり。御返り、
「 春や来ぬるとも、まづ御覧ぜられになむ、参りはべりつれど、思ひたまへ 出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず。 
「 新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なりけり 」 おろかなるべきことにぞあらぬや。